シェアハウス暮らしの中で、私が得たものは
“持ちつ持たれつ”の精神と “give and take”な行いが、シェアリングに繋がる。
という実感である。
そもそも、シェアって最近よく聞くけど、どんな意味なのか?
シェア – とは
動詞形:分ける,分配する,〈ものを〉共有する; 〈費用・責任などを〉分担する; 〈意見・苦楽などを〉共にする.
名詞形:(一人の人が持つ)分け前、取り分、(一人の人が持つ費用・仕事・責任などの)出し分、割り当て、負担。(英和辞典Weblio辞書より抜粋引用)
シェアハウスに使われるような用途は、動詞形(上段)が主な用途です。
つまり
『共有し分け合う為には、私達はどのようにしたらいいか?』
というのか本文のお題となります。
そしてその一つの答えが、タイトルであり、私が得た実感です。
続いて実感についてですが、まずはお馴染み文言説明から。
持ちつ持たれつ(読み)モチツモタレツ とは
互いに助け合うさま。相互に助けたり助けられたりするさま。
(例)「持ちつ持たれつの関係だ」 (デジタル大辞泉より引用)
give and take (読み)ギブアンドテイク とは
公平にやりとりする、互いに譲り合う、意見を交換する。
(英和辞典Weblio辞書より引用)
なぜそう思うに至ったのかというと
私が過ごしたシェアハウスはとにかく頂きものが多かった。
友達の農家から作物を、さらに、大きな単位で安く買った食べ物は腐らせるわけにはいかないのでシェアメイト皆で分け合う事が多かったからだ。
なぜそんな事態になるのか?
道の駅などでみた事もない、今まで知らなかった地場の野菜や加工品を買うのはとても楽しい。珍しくて、美味しくて、地元を感じるものが沢山並んでいる。
せっかく来たんだから、その地で暮らしているのだから、食べたい!
そう思うのは自然な事だ。
がしかし、大抵量が多いのである。
独りでは、よほど工夫して管理、調理、食べなければ腐らせてしまう。
そんな時、シェアハウスはとても便利。
必要な分だけ味わい、あとは分け合う事が出来るからだ。
- 波田のスイカ
- 四賀村のズッキーニ
- 茄子
- とうもろこし
- 安曇野放牧豚
- 富成五郎商店の厚揚げ豆腐
- 道すがらにあった直売場の桃。
とても美味しい毎日だった。
そしてシェアメイトに農家の友人が一人でもいようものなら、大量におすそわけされる茄子と胡瓜。
出来過ぎてしまったけれど形が悪くて売れない。かといって本人も食べきれない。
やはりここでも、腐らせるのは忍びない。というわけだ。
かくして頂きものの雨あられに歓喜する事になる。
だが、人というのは難しいもので
「いつもすみません」ともらってばかりを、続けることができないのだ。
この気持ちは「返報性の原理」といって心理的作用として実証されており、よく恋愛やビジネスでも利用されるテクニックだ。
返報性の原理(へんぽうせいのげんり)は、人間の持つ心理のひとつ。
人は他人から何らかの施しを受けた場合に、お返しをしなければならないという感情を抱くが、こうした心理をいう。この「返報性の原理」を利用し、小さな貸しで大きな見返りを得る商業上の手法が広く利用されている。(wikipedeaより引用)
お返しをしなくては、胃は膨れても心は晴れない。
しなければいけないなど誰も言いはしないが、快適な日々を過ごす為に心の中に引っ掛かりがない事はとても大切な事なのだ。
こうして自分が出来るお返しを探してはする事になる。
- 時間だけは沢山あったので手間のかかる料理をして、振る舞う。
- 食べ終えた食器はみんなの分も洗う。
- 庭の手入れを手伝って綺麗な景観を維持する
生活力も、特に秀でた家庭スキルがあるわけでもないのでここが限界であった。
やはりもらい過ぎた気はする。
とはいえ、こういった(いずれ返さなければ)という気持ちが次なる縁に繋がるのだとも思う。
与え過ぎる事は、お互いの心と生活の質を侵す。
突然暗い強めのワードを使いましたが、与え過ぎる人の方が、注意が必要だと思う。
与える人が、返して欲しいものは本人しか分からないからだ。
それを返せるかどうかは実はとても難しい。
与えた本人が気持ちを制御できなければ、憤りやイライラ、自己憐憫にも繋がる。
もらい過ぎた方も、もらいものに心を縛られる事になる。
ここが、“give and take”な行いが良いかなと思うところだ。
もらい過ぎる事も与え過ぎる事もシーソーバランスが崩れてしまうと、シェアとは違う何かに変わってしまう気がする。
一度崩れてしまった心や関係は歯止めが効かない。
とはい”give and take”はアメリカンな言葉だけあって非常にフラットだ。
お互いに独立して並び立っているイメージ。
多分これは、日本人には一生できない関係性だと思う。なんせ、僕らの「人」のイメージはいつも支えあっている。
けれど、「持ちつ持たれつ」は与える側の言葉だし(助けられる側は「いつもすみません」って言うけど実はそれじゃいられないのは前述の通り)
現代っ子な私は “give and take寄りの持ちつ持たれつ”くらいの精神が丁度良いのではないかと感じている。
気持ちだけじゃ続かないけど、割り切り過ぎたら寂し過ぎる。
今も、正に日本は人口減少に歯止めが効かない中シェアリングはこれからも大切なテーマになっていくと感じる。
私はここ、長野県安曇野でその良さとリアルを体験し広めたい。
シェアハウス高橋に暮らす事、一月。
人生初となるシェアハウス暮らしは山あり谷ありだが、私の右手から誰かの左手。
私の左手から違う誰かの右手へ繋ぐように、色々なものを交換し続ける毎日は楽しいし、新鮮さと喜びに満ちている。
こうやってどこにだって行ける気がしている。