香港映画「十年」 考察(超ネタバレ) 切迫した未来像、今この瞬間に奪われているものは何だ?

6月9日の過去最大級となる103万人の香港デモに衝撃を受けた人のために慌ててこの映画を紹介しなければと思った。
中国によって、香港の人々が手にしている自由を今正に奪わんとし、民衆がそれを鋭敏に察知し、団結し守ろうと行動を起こした。

私は、香港をあまり知らないし、香港人の知り合いもいない。
しかし自由を手にしている民主主義国家の人間の一人であり、主権を奪われることが何を意味するか想像することができる。

その危機感や起こりうる悲劇を、海外にいても共有できるストーリーを探し、たどり着いたのが本作だ。(なんとNetflixで観れる!)

本作は、ジョージ・オーウェル「1984年」やnetflixで話題を集めた英国ドラマ「ブラック・ミラー」に代表されるディストピアSFだ。悲観的な香港の2025年の未来像を5人の監督がそれぞれに短篇作品をオムニバス形式で描いている。その中身はSFとは思えないほど、切羽詰まったものだ。

どの作品も、今この瞬間に民主主義が脅かされている現状を鋭く切り取っている。そしてその先にある危機感、文化が消失していく恐怖、国家への不信感が感じられる。

ぜひ、本作を通じて香港の民衆が、奪われまいとしているものがなんなのか知ってほしい。

本記事はこの作品がリアルな世界に対する警鐘であることを補完するために、書いたものだ。

※完全ネタバレです。ご注意下さい。

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『自焚者』香港で立ち上がる人々の実像を強く感じる


今回のデモや、逃亡犯条例改正に最も近い危機感を感じるのは、4作目の『自焚者』だ。

監督:キウィ・チョウ(周冠威)

「あらすじ」
服役中にハンガーストライキで自殺した若い民主化運動家の支持者とみられる人物が、イギリス領事館前で焼身自殺を行う。遺書も身元も分からない自殺者は一体何者なのか。数名の識者へのインタビューという疑似ドキュメンタリーと、香港独立運動をしている若者たちの姿を追い、突然、巻き込まれ中国当局に自由を奪われる雑貨屋のおじさんというそれぞれのストーリーが絡みあい展開していく。

周監督は、当時CNNの取材の中で「早急な変化がない限り、香港市民もチベットと同じような悲惨な状況に直面する」と懸念。「香港市民はもっと民主化に貢献し、犠牲を払わなければならない」と話している。

2015年からわずか4年で、民主化を骨抜きにしようとする大きな動きがあったためにこの作品が持つメッセージはより強さを増している。

「不正に立ち向かうのは、人間の責任」

「共同声明と基本法を維持していれば、独立する必要はない」

「利己的なのが、中国人の欠点」

などベースとなる信念や猜疑心、明確な論旨があり焼身自殺という非暴力手段を用いるという点も作品内で補強されており、一体、どんなことが起こったのか、その結果、何を求めて立ち上がるのか、という実像を感じることができる作品だろう。

『方言』文化的アイデンティティの喪失はこうして起こる


監督:ジェヴォンズ・アウ(歐文傑)

「あらすじ」
政府が中国語(普通語)のみを公用語とし、タクシー運転手にも普通語の試験が行われ、合格しなければ営業することも出来ない。公的な場所から徐々に広東語の通じない香港の街に変わっていく姿を描きながら、自分の子供も当たり前に普通語で話す姿に広東語話者の悲哀と香港人のアイデンティティの喪失がにじむ。

現在香港人の95%が使用している広東語だが、中国語の存在感は日に日に強まっており、すでにサービス業では中国語と英語が話せなければ香港ではろくな仕事にありつけないという(yahooニュース「香港映画『十年』を観て 香港人のアイデンティティ、広東語はいつか消滅するのか?」より)。次第に街で聞こえる言語がすり替わっていく事で、失われてしまうのは言葉の中で積み上げてきた文化だ。フィンランド語には雪を表す言葉が11種類も存在するし、日本語には、曖昧さやオブラートに包むようなニュアンスを伝える語がかなり多く存在する。これらは、そのままその土地や人が持つ風俗や文化を示しているし、歴史的な文化を読み解くために大きな意味を持つ。

もし私達が太平洋戦争終戦後、日本語を止め、英語が公用語になっていたら今頃どれほど多くの日本文化を理解できなくなっていただろうか。想像もつかない。

そして、それは今差し迫った問題として香港に押し寄せてきているものだ。

『地元産の卵』思考せず従うことに慣れた先にある未来


監督:ン・ガーリョン(伍嘉良)

「あらすじ」
国家安全法施行後の香港で、最後の養鶏場が閉鎖させられた2025年。香港産の卵を卸売していた食料品店の店主は、香港産を「地元産の卵」と表示して店先に並べた。すると店主の息子も入団している“少年軍”の子どもが、表示禁止用語リストを手に、その表記は「規則に違反している」と写真を撮る。“少年軍”は、ほかにも“禁書”摘発のため市中の書店を巡り歩き、リスト内のものを販売している店舗には…。

この物語は、中国で1966年から起こった「文化大革命」と2015年、上映後香港で起きた「銅羅灣(コーズウェイベイ)書店という禁書を専門とする書店の関係者が相次ぎ失踪した事件」の二つを想起させる。そして物語の中では、それらの実行犯を何も知らぬ子供たちに行わせるという狡猾な手口を使っている。

過去に中国共産党が行なった大粛清と、おそらく今現在も虎視眈々と進めている文化統制をリアルに感じさせる。中国本土では、1987年民主化を求めて巻き起こった「天安門事件」について今でも語ることはタブー化され、近年起こったチベットの独立運動の以後「独立国家」「ダライ・ラマ法王を褒める類の言葉」をチベットでささやくと投獄されることもあるのが現状だ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所より)。過去の例を引き合いに出せば、太平洋戦争期の日本もそうだが、事はそんなレベルではない。

伍監督はこの作品をつくったきっかけは、「香港への愛国教育の導入に対する反対運動」だとインタビューで話している。
「子どもへの愛国教育に恐怖感を感じました。国旗をみて感動せよとか、国歌を聞いて涙を流しなさいとか、非常に問題がある教育を香港に導入しようとしたのです」(「映画『十年』が予見する香港の暗い未来」WEDGE Infinityより)

しかし本作には店主の息子の行動が、一つの希望を提示している。
ラストシーンで息子が漫画片手につぶやく「ドラえもんも禁書なんておかしいよ」
というシンプルな言葉の中に込められた善悪の判断を当たり前のことという以上にも以下にもしてはいけないのだろう。

『エキストラ』誰かの行動は陰謀かもしれない


監督:クォック・ジョン(郭臻)

「あらすじ」
国家安全法が制定されてから間もない頃、真愛連ラム党首と、金民党ヨン党首がゲストで登場する労働節(メーデー)の集会が開かれる予定であった。
しかし、そのメーデーで大きな人傷沙汰の事件を起こし、国家安全法による警備を厳しくするための陰謀が画策されていた。生活のため高額の仕事をしようと実行犯を引き受けた男二人。計画は二転三転し、ただの騒ぎではなく実際に発砲することに…。

「国家安全法」は2015年7月1日、中国にて施行された新法だ。国家安全については「政権や主権、領土や経済活動など、国家の重大な利益が危険や内外の脅威にさらされない状態」と規定し、この広範な規定範囲について物議を呼んだ。
そして本作では、自作自演のテロを起こすことで、法遵守への姿勢を強化させようとする話だ。中国共産党陰謀論は、香港の中でも定期的に話題に上がっているものだ。
だがあらゆる陰謀の明確な証拠はないため、これ以上語ることはできない。
それでも、それは過去を思い起こせば起こり得る世界だと推察することができる。
エキストラという痛烈な皮肉のこもったタイトルに、ブラックコメディとして付けられたのではないひっ迫感を感じさせる。

『冬のセミ』ブルドーザーで壊された家には何が住んでいたのか


監督:ウォン・フェイパン(黄飛鵬)

「あらすじ」
居住地が再開発でブルドーザーで潰されてしまった2025年の香港。その廃墟から様々な生活の記憶を拾い標本化する作業を行う2人の男女。ある朝男は、自分のやってきた事、信念を曲げないために自分を標本にしてほしいと女に頼んだ。

標本が意図するものは、小さな声なき声だ。そして突如ブルドーザーで破壊しに来たのは支配層だろう。この作品の中の環境はすでに破壊されつくされて再構築されてしまった世界だ。その中で、男は自分が変わってしまわぬように標本になることを選んだ。台湾の霧社事変をテーマにした「セデック・パレ」という映画を思い起こす。彼らの自分たちの文化や生き様を守るために勝てない戦に臨んだのだ。
とても理性的とはいえないが、隷属は死と同義であるという考え方もまた一つの自由なのだ。この反抗の作品は、アートとしても雰囲気を持っているが、非暴力のデモと同じ静かな激しさを持っている。

概要とまとめ

香港では、封切り時では一館のみの上映だったが、口コミが広まり多数のNPO団体などの協力を得て公共広場からテラス、スタジアムなど香港中で上映会が開かれるなど大きな反響があった。
最終的には『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を上回る興行収入を獲得。
中国では上映禁止となっているが、国際共同プロジェクトとして、それぞれの国の十年を描くタイ版、台湾版、製作総指揮を是枝裕和が担当した日本版がそれぞれ2018年に上映されている。

2019年6月のデモ活動の焦点となった「逃亡犯条例改正」はひとまず保留となったが、保留が報道された翌日以降に200万人超のデモ隊が、香港島ビクトリア公園に集まった。政府の「正式撤回」まで戦うという意思表示だろう。

何もしないでいたら、自由は奪われてしまう。
その背景とマイナスの結末を考えることができるのが本作だ。

こうして私達、一人一人が存在していること、考えたことを発信できるのは与えられているものではない。

そこから始めなければ、この悲劇的な世界は現実になってしまう。

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