映画「シェイプ・オブ・ウォーター」は悲劇なのか?(考察・超ネタバレ)

shapeofwaterポスター2

スポンサーリンク

基本情報

監督・原案
ギレルモ・デル・トロ
製作
ギレルモ・デル・トロ、J・マイルズ・デイル
脚本
ギレルモ・デル・トロ、バネッサ・テイラー
公開日
2017年12月(米),2018年3月1日(木)
撮影
ダン・ローストセン
美術
ポール・オースタベリー
衣装
ルイス・セケイラ
音楽
アレクサンドル・デスプラ
視覚効果監修
デニス・ベラルディ
出演
イライザ-サリー・ホーキンス
ストリックランド-マイケル・シャノン
ジャイルズ-リチャード・ジェンキンス
不思議な生きもの(アセット)-ダグ・ジョーンズ
ホフステトラー博士-マイケル・スタールバーグ
ゼルダ-オクタビア・スペンサー

「あらすじ」
1962年、アメリカ。海には近いけれど何もない田舎町「ボルチモア」
政府の極秘研究所に勤めるイライザは、秘かに運び込まれた不思議な生きものを見る。
アマゾンの奥地で神のように崇められていたという“彼”の奇妙だが、どこか魅惑的な姿に心を奪われたイライザは、周囲の目を盗んで会いに行くようになる。子供の頃のトラウマで声が出せないイライザだったが、“彼”とのコミュニケーションに言葉は必要なかった。音楽とダンスに手話、そして熱い眼差しで二人の心が通い始めた時、イライザは“彼”が間もなく国家の威信をかけた実験の犠牲になると知り、ある決断をする。二人の運命の行方は一体どこに辿り着くのか(HPより大部分抜粋)

アカデミー作品賞、監督賞、音楽賞、美術賞 受賞おめでとうございます!!

拍手喝さいというより、十年後位にテーマ曲を耳にして「shape of water」っていう良い映画があってね。としみじみ語りだすような心の奥底にそっとしまっておきたい作品だと思いました。こういうの初デートとかで見に行ける若人は本当に羨ましいね!なぜってこの作品が、本当に”愛は全てを超える”をテーマにしているからだ。
それでいて、本作は「美女と野獣」「人魚姫」のような目に見える”わかりやすさ”には逃げていない。全ての愛の変化を水やセリフ、色の描写等など技巧的に描いている。それでも、それらがきちんと伝わるように魅せてくれていると思う。なので、二人で観たりした後にはきっとそれぞれの心にも変容を来す事だろうと思う。

さて、本作の魅力を語るのはもはやパンフレッドを読んでくれ!これがもう素晴らし過ぎるからっ!もうめっちゃ色々な側面から鮮やかに、かつ深々と魅力について書かれているから!
という事で、ここではあくまで観た人向け、あらゆる映画批評的な考察を行いたいと思う。

※ガンガンネタバレします。ご注意下さい。

本作のどんなところが、こんなにもおとぎ話然としているのか?

私が観終えて一番はじめに思ったのは、これは王道の「おとぎ話」だ。という事だった、そして同時に何でそう思うんだろうか?と自問した。おとぎ話なのに、本作は何処と無くおとぎ話ではない気がした。それを見つけ、何でおとぎ話仕立てにしたのかという事に本作の素晴らしさが隠れているのではないかと思ったのだ。

では、まずそもそも「おとぎ話」の定義とは何だろうか。

「おとぎ話」
つれづれを慰めるための話、伝説、昔話を幼児向けにした話 (新潮)
おとぎの際に人のつれづれを慰めるために語り合う話、子供に聞かせる昔話や童話 (広辞苑)
「童話」
児童のためにつくられた物語、おとぎ話や寓話を含む (新潮)
子供のために作った物語、おとぎ話の他に伝説、寓話も含む (広辞苑)
「Märchen(メルヘン)」
・たいていの場合口から口へと伝わった
・場所や時間を確定できる要素を含まない
・自然の法則が通じない
・超人的能力や運動力を持つ、言葉を話したり行動する動植物や物体が登場、人間生活に口をはさむ
・最後には大方善良なるものが報われ、邪悪なものは懲らしめを受ける物語(Wahrigドイツ語辞典)

こう見てみると、本作はおとぎ話というより、ドイツにおける日本の「昔話」と類義語の「Märchen(メルヘン)」に近い。
だが、幾つかの要素でやはりそうでもない。
何より本作は「むかしむかし」と始まりはするが、そこは1962年のアメリカ、ボルチモアでのお話なのだ。現実の歴史や場所を下地にする以上、本来であれば、日常奇譚というべきものだが
・ジャイルズという狂言回しのポジションからなるモノローグとエピローグで締めている。
・伝説の生物「半魚人」が主人公である。
・勧善懲悪である。
・また現実の時代や場所を感じさせない建築やセット
でおとぎ話としての体裁をとっている。
ではなぜ、おとぎ話でなければいけなかったのか?そこには「美女と野獣」は納得がいかないと口にするデルトロ監督の、巷に溢れる選民思想から結局脱却できないおとぎ話への違和感であり、憤りが存在していたからであり、同時に現在を語る上で多くの人間に耳を傾けてもらう為の効果的な手法だったからだ。かつての有名作家達が、世界の窮状や理不尽を世に訴えかけるのに童話を用いたのと同じ理由でデルトロ監督は「おとぎ話」として本作を形作る事にしたのだ。
本作はおとぎ話であると同時に立場の弱い者、虐げられた者の痛快復讐劇でもある。それすらも悲劇仕立てにしてしまった辺りにデルトロ監督の歪んだ世の見方、フィクションへの偏愛を感じてしまうが、本来童話とはそういうものなのかもしれない。
美女と野獣が結局は美男美女の恋物語に過ぎないと取る事が出来るように、本作は結局現実世界と水を合わせる事ができず打ち破れた異邦人の話でもあるのだ。そう取れば、本作は悲しい愛のお話となる。
だが同時に、半魚人アセットと声を失ったおばさん掃除婦との本当の愛に満ちた恋物語でもある。
何しろ、イライザの声が戻ることはなく、アセットはキスしたって人間になるわけじゃない。
二人を引き寄せるものは互いの心だけ。水の中で抱き合う中にいるのはお互いだけ。
そして二人は海の底で末長く幸せに暮らした。見事なハッピーエンド、どこまでもピュアなラブストーリーなのだ。
この多層的な味わいこそ、デルトロ流のおとぎ話像であり、これからのおとぎ話の1形態となるのではないかと感じています。

イライザの首の傷跡の意味は?

最後、アセットに抱えられて海に飛び込むとその傷跡がエラになる。海の底で二人は末長く暮らす事を示唆する部分だ。
でも本当にエラになったの?と思えてならない。
だとしたらアセットがエラにしたわけだけれど、それは何となく自分本位すぎるのではないだろうか?彼女と俺は海の中で永遠に共に過ごすのさ。という事なのか?そんな恋の独善意識や独占欲など本作にはそぐわない。そもそも、最後にイライザは彼に嘘だとしても「住む世界が違う」と言っている。ならばエラはイライザの夢?もしくはジャイルズの夢なのでは?と考えた方がしっくりくる。何故ジャイルズがここで出てくるのか?オープニングもエンディングもジャイルズのエピローグによって構成されているという部分が一つ、そしてもう一つは彼がオープニングでこのお話を「真実とー愛と喪失の物語」として語っている点だ。一体何を喪失したのだろうか?これは後でゆっくり語りたいが、イライザとアセットの目線から見てみるとどうにも腑に落ちない。ならジャイルズだろうというわけだ。
そもそも、首の傷は一体いつどうやってついたのだろうか?ストリックランドが言う通り親からの虐待なのか?何故アセットがジャイルズにつけた傷とよく似ているのか。川に捨てられて死にかけていた赤ん坊のイライザを助けのは「彼」だったのではないか?
純粋無垢な赤ん坊に恋をしたアセットは声を奪う事で永劫彼女の純粋さを保たせようとした。そして運命の再会の時は来た。彼がイライザにエラつけた説に力が宿りそうだが、そんな事はない。
あるいは、イライザも元、半魚人だった。人間になり声を失ったのだ。どこかで聞いた話。離れ離れになった半魚人カップルが姿形は違えど再会した話。全くの同人である。こんな話でアカデミー賞は取れない。
結局私は明確に答えられない。
おそらく、虐待を受けた傷なのだろう。そのトラウマでイライザは声を失ってしまう。その傷(声を失ったことも)がアセットと同じものを得る触媒となり、彼女はそのおかげで真の愛にその身を満たす事ができた。という事なのではないだろうか。

なんども出てくる卵の意味は?

卵の一番シンプルなイメージは「殻を破る」だ。イライザはアセットの前でしか卵の殻を破る事はない。殻は外界との壁、茹でているのは、不意に割れて溢れ出さない為。茹でている時間は外の世界への準備時間。その間に己の中の欲望、液を溢れ出させている。その対比ではなかろうか。そういえば、浴槽から足も飛び出している。

イライザは何故声を取り戻さなかったのか

一番のクライマックスシーン。彼女が高らかにyou’ll Never Knowを歌い上げながらフレッド・アステア&ジンジャーロジャースの「「艦隊を追って」のオマージュダンスシーンに突入する。世にも奇妙で最高にロマンチックな半魚人とのミュージカルシーンである。多分、みんな思った気がするんですが(ああイライザ、彼とのセックスで本当の愛を知って話せるようになったんだね)と。でもミュージカルシーンが終わるとスポットライトが消え、また手話が始まります。
私はこの瞬間に彼女はもう話せたんじゃないかと思います。それでも、一度も声で話すシーンが出なかったのは愛の対話に、言葉など不要だったからでしょう。

一体このお話は何を”喪失”したのか

さて、私が最もひっかかった部分がこの部分でした。うに、それはイライザの命でしょう。ストリックランドに銃殺され、彼女は生き絶えた。これは間違い無くジャイルズの視点です。つまり、ジャイルズにとって本物語は悲劇なのだ。真実の愛に触れ、そしてそのために命が失われた悲しみがオープニングで観客に告げられている。だが、こうも言っている「そして、すべてを壊そうとしたモンスターについて」これはアソットに見せかけてストリックランドの事を指したフェイントの役割を果たしている。
けれどそれだけじゃあない。ジャイルズは最後までこの愛は壊されなかったと告げている。命は失われてしまったが、二人を結ぶ愛は生き続けるのだ。思えば最後の詩

「あなたの形は見えなくとも、私の周りにあなたを感じる。あなたの存在が私の目を愛で満たす。それは私を謙虚にする。あなたはどこにでもいるのだから」

は肉体から解き放たれたかのような響きを持っている。ならばやはり形はどうであれ本作は、末長く二人は共にあり続けたのだ。
いや、ここは「水の形となって」というのが美しいのエンディングなのかもしれない。

まとめ

ある事ない事だいぶ好きに論じてみました。答え合わせ出来るものがないからこんな捉え方もあるんだ位で考えていただけると幸です。それで結局タイトルの回収なんですけれど、私は本作を悲劇とは捉えていません。そういう側面もある、とは思いますが。
それは何故かというと監督が本作を撮るにあたりこんな事を話しています。「僕は6歳の頃観た”大アマゾンの半魚人”をいつか幸せにしたいと思っていて40年以上時を経て本作になったんだ」と。多様な見方の出来る作品だけど、私は幸せで美しいおとぎ話に1票を入れます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク