映画「万引き家族」考察・疑似家族とは何を意味しているのか(ネタバレ)

万引き家族、ポスター画像

この作品は社会によって”家族”になり、また社会によって”家族”ではなくなった人々の物語です。

2004年公開「誰も知らない」を劇場で観てからというもの、自称是枝作品ファンを名乗っています。そしてその中でも、本作は過去の是枝作品の総決算です。
そのため、本作を語るにはまず過去の是枝作品から論じていきたいと思います。

是枝作品といえば欠かせないテーマが”家族”と”社会から”切り捨てられてしまった人々”だからです。

とはいえ、まずは、カンヌ国際映画祭(パルムドール)最高金賞おめでとうございます!

万引き家族_カンヌ受賞式

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基本情報

監督・脚本・原案・編集
是枝裕和
製作
石原隆・依田巽・中江康人
音楽
細野晴臣
撮影
近藤龍人
制作会社
AOI Pro・フジテレビ・ギャガ
公開
2018年6月8日
出演者
柴田治:リリー・フランキー
柴田信代:安藤サクラ
柴田亜紀:松岡茉優
柴田祥太:城桧吏
ゆり:佐々木みゆ
柴田初枝:樹木希林
柴田譲:緒形直人
柴田葉子:森口瑤子
4番さん:池松壮亮

「あらすじ」
東京の下町に暮らす、日雇い仕事の父・柴田治とクリーニング店で働く信代、息子・祥太、風俗店で働く亜紀、そして家主である初枝の5人家族。生活費は治、信代の賃金、初枝の年金に頼りながらも足りない食品などを治と祥太が親子で手がける「万引き」でまかなって暮らしていた。5人は社会の底辺で暮らしながらも笑顔が絶えなかった。冬のある日、近所の団地の廊下に少女「ゆり」が震えているのを見つけ、見かねた治が連れて帰る。体中に傷跡のある彼女は柴田家の6人目の家族となった。しかし、柴田家にある事件が起こり、家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれの秘密と願いが次々に明らかになっていく。
(wikipedeaより引用)

※ここからは、超ネタバレ致します。ご注意ください。

過去作とくらべた時に特に似通っている作品が2つあります。
一つは、親に育児放棄され、日本の社会から身を潜め子供四人だけでひっそりと暮らす社会が作り出した見えない枠から”切り捨てられてしまった人々の生活”を描いた「誰も知らない」。
もう一つは、六歳の子供を2家庭で交換する事によって血の繋がらない親子が本当の親子になっていく疑似家族を通じて”家族”をかたちづくるものは何なのかを観客に突きつける「そして父になる」。

これらを組み合わせて、作り出されたのが本作です。
その中でも疑似家族「柴田家」を構成するものの正体と、家族ではなくなってしまったその理由について考察してみたいと思います。

血の繋がらない六人を”家族”にしたのは、社会の正しさから切り捨てられたから

柴田家の人間は、柴田初枝を除き全員が偽名を用いています。本名では社会の正しさの枠の中で幸せを手にすることが出来ないからです。前科、家出、置き去り、DV。本名を取り戻した時それぞれは、社会の正しさによって、望まない檻の中へ戻されるのです。社会の正しさと、各々の幸せの不一致が寄り集まって生まれたのが柴田家です。それが根源的な理由ですが、彼らは他人として寄り集まる訳ではなく一つ屋根の下に住まう事で家族になる事にします。社会的には、今更家族となったところで当然意味はありません。ではなぜ、彼らは家族となる事にしたのでしょうか?

”家族”になりたかったのは、誰も”家族”を知らなかったから

唯一本名しか持たない初枝にしても、夫の浮気により離婚し娘も腹違いです。治も信代も自分の両親の事などについて語る事は一切ありませんが、治が自分の本名である祥太を拾ってきた男の子に名付けたのかという謎の中に答えはあると思います。

おそらく治は彼自身の家族をやり直したかったのです。治の幼少時代に家族と呼べるようなものはなかった。子、祥太を通じて自分の幼少時代を家族のいるものに塗り替えようとしたのだと思います。

また、別の切り口から見て初枝は亜紀を、治と信代は祥太を半ば誘拐のような形で家に住まわせています。初枝は、自分の夫を奪った女への復讐という意味が最も強かっただろうと思います。毎年現れて彼女の息子に謝らせ金をせびる姿にそんな怨念を感じさせます。治と信代は温情からという意味が一番強いのでしょうが、誘拐だというわけにはいかず、亜紀や祥太を繫ぎ止める体裁の良い表現がそれぞれ「家族」だったのかもしれません。

彼らを”家族”と呼べるその訳は、互いに愛を注ぎ合い認めあっていたから

まず前提として、彼らが家族になりたがっていたことが大きな意味としてあります。これは、”家族”というものが他者や社会によって決められるものではなく自分達によって定めることが可能だからです。これは職業としての”物書き”であったり、”評論家”というようなものに似ている。名乗ってしまいさえすればそうなのです。
ですが、客観的に見て家族ではない共同体も存在します。その違いは何か、血縁関係を除き、客観的に見て家族になるには双方向の愛が必要なのです。片方では十分ではありません。その愛の矢印をいくつもの演出で描き出したのが、本作です。
そのディティールをあげると全編をあげるに等しいですが、初枝にとっては海水浴のシーンでの声にならない感謝の言葉であり、信代にとっては風呂のシーンであり、それぞれに投げかける数々のセリフです。それぞれが、互いに大切に慈しみ合っていた事が本作の要であり、壊されてしまった時の切なさそのものでもあります。

どうして柴田家は壊れてしまったのか?

これはとても簡単です。祥太が大人になってしまったからです。タイトル通り彼らは6人分を養うだけの金銭がなく日用品や食事を万引きをする事で生活を保っています。(タイトル英語版Shopliftersだと万引きという意味しかないけれど、逆に子供自体を盗んだ意味も付与している気がします)けれど、祥太は万引きが社会的に悪い事だと理解できる年になってしまった。そして凛にそれをさせない為には、自分が捕まり悪い事だと分からせるしか方法がなかった。だが、本作の最も悲しい面として、信代も治もその方法しか知らなかった。だから続けていく事がこれ以上出来なかったのです。刑事が治に対して「なぜ祥太にも万引きを手伝わせたのか?」と聞かれた時に「それしか教えられる事がなかった」と告げています。

そうなると、別の疑問が立ち上がります。果たして愛の喪失があったのか?という疑問です。最愛の祖母を亡くし、その愛も「金の為だった」と警官に告げられた亜紀にしても後日一人で柴田家に家宅侵入しています。これは、おそらく自分が感じていた愛の実感を確かめに戻ったのではないでしょうか?
翔太と治に関してはバスのシーンで間違いなく愛が消えていない事がわかります(祥太は声に出さないように「父ちゃん」と口ずさむ)。あくまで道義的な意味での解散であり、心の中では家族としてそれぞれが結ばれたままなのだと私は思います。

<オマケ>どうして父役の名前が良多じゃないの?

最後に非常にメタ的(映画の中だけではなくて、現実の世界の話とリンクする内容)なお話です。是枝映画シリーズ「歩いても歩いても」「ゴーイングマイホーム」「そして父になる」「海よりもまだ深く」と家族をテーマにした作品では過去全て父親の名前は必ず良多でした。これは、父親という役柄をパラレルワールド的な同一人物として描いていると解釈していましたが、本作では、偽名:治。本名:祥太。とどちらも違います。これにはどんな意味があるのか?本作での治は父親になりたかったわけではなく、家族になりたかった。もしくは家族というものをやり直したかったからなのでしょう。その意味で、柴田家の治の立ち位置は、実は父役ではなかったのかもしれません。自分は兄でも何でも良かったのかもしれない。

まとめ

社会から切り捨てられなければ、生まれなかった「家族」が同じく社会の”見えない正しさ”によって壊されるという痛烈に社会を皮肉った作品です。ですが、その根底にあるのは是枝さんの「家族愛」への途方も無い優しい目線であり、敬愛です。一つ屋根の下で暮らすことすらもはや必要としなくなった”家族”を最終的には描いて見せたような気さえします。それが、最後の凛(じゅり)がベランダから外へ体を乗り出し何かを見るシーンに込められているように思います。彼女は外の世界との繋がりを柴田家を通じて持ったのですから。

以下、関連作品紹介。


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