「アネット」感想・考察 “笑い”の暴力性

「ポンヌフの恋人」「汚れた血」などの鬼才レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」以来8年ぶりとなる新作。原案はポップバンド「スパークス」がストーリー仕立てのスタジオアルバムとして構築していた物語だ。

私は初めてのレオス・カラックス作品となるが、これほど縦横無尽で摩訶不思議な映像表現に驚いた。人種や障がい、アスリートなどを題材にするなら実際にその立場にある人達が演技をすべきであるという真実性(オーセンシティ)が求められている時代にあって、アネットは人形だし、ほぼ全編を歌で構成。多重映像や不思議なシーンの切り替え、リアルとフィクションを交差するメタ構造など映画的な表現が存分に発揮されている。

ストーリーを追うよりも、むしろそうしたメタファーの洪水に対してあれこれと意味を探してみる方が本作を楽しめるかもしれない。

正直、本作はかなりトリッキーなので、あまり考察が意味を成す類のものではないが、それでも頻繁に出てきた「笑い」について考察してみよう。

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基本情報

監督・脚本:
レオス・カラックス
脚本・原案・音楽:
ラッセル・メイル、ロン・メイル
製作:
チャールズ・ギルバート
ポール=ドミニク・ウィン・ヴァカラシントゥ
製作総指揮:
オリヴィエ・ゴリア
出演者
ヘンリー・マックヘンリー:アダム・ドライバー
アン:マリオン・コティヤール
指揮者:サイモン・ヘルバーク
アネット:デヴィン・マクダウェル
公開:
2021年7月6日(仏)
2022年4月1日(日)
製作国:
フランス、ドイツ、ベルギー、日本、メキシコ

[あらすじ]
スタンダップコメディアンのヘンリーと、国際的なオペラ歌手のアン。“美女と野人”とはやし立てられるような不似合いなふたりだったが、互いに恋に落ち、やがては世間の注目の的となる。しかし、ふたりの間に娘アネットが生まれると、彼らの人生は狂い始める。(映画ナタリーより)

※ネタバレします。ご注意ください

「笑い」の暴力性

本作で何度も提示される「笑え」の強要は、一貫して暴力性を帯びている。くすぐりによってアンを無理やり笑わせるヘンリーから始まり、暴力の象徴である緑色を身にまとい、観客を挑発し、マイクコードで自分の首を絞める。記者はプライベートなアンとヘンリーを取り囲み「笑って!笑って!」とカメラを向ける、など全方位に向けて「笑いの暴力」が充満している。

笑いの中に「業の肯定」を見出したのは落語家の立川談志だが、本作においてそれがまるで鏡合わせのように表現されている。

自尊心と社会的役割の狭間で

偶然か必然か、2022年3月28日に行われたアカデミー賞では、この考察を深める事件が起きた。

司会役を務めていたスタンドアップコメディアンのクリス・ロックがウィル・スミスの妻であるジェイダ・ピンケット・スミスの短い頭髪をジョークにするひと幕があり、ウィルが張り手をかましたのだ。

そして、本作のヘンリーもまたスタンドアップコメディアンという役柄であり、非常に挑発的で露悪的だ。なんと偶然にもエンドクレジットには「Thanks クリス・ロック」という文言も出てくる。

スタンド・アップコメディがもたらす「笑い」は、時として不謹慎なことで笑ってしまうギルティプレジャー的な楽しみがあり、そこには人の外見や人種などを揶揄する表現が用いられている(実際には志と勇気を持って言葉にしている)。本作でヘンリーは、コメディアンになる理由を「相手を武装解除させ、真実を知るたった一つの方法だ」と語る。本作だけ観るとこの言葉が意味することは理解しづらいが、リアルなスタンドアップコメディを観賞する人なら分かる部分もあるだろう。

シカゴの劇場でスタンダップコメディの舞台に立つ日本人Saku Yanagawaに、週刊文春がインタビューした記事の中に

分断が可視化された中で、スタンダップコメディはそれを解消するきっかけになる貴重な芸能だと信じている」

というコメントがある。そこには現実的な対立をひと時忘れさせ、融和させる空間が醸造されるのではないだろうか。

だが言葉とは裏腹に、ヘンリーは試合前のボクサーのように体を鍛え、シャドーを行い、何かと対峙しているように見える。観客を笑わせることができなければ、ステージから降ろされるというプレッシャーもあるだろう。

しかし、ヘンリーは作中で何度か「闇に魅入られ、足を踏み外してしまう」(かなりおぼろげ)というような言葉を語っている。これは、先に述べた「業の肯定」の肥大化だと私には感じられた。

なぜなら本作は、一貫して「有害な男性性(Toxic masculinity)」について描いているからだ。その点において、ヘンリーは歓声を己のものとして捉え、観客より優位な立場に立つことに固執している。ボクサーのような装いは、そうした自己に絡め取られないように社会的「人間であろうとする対決と同時に、周囲の期待へのストレスに苦しむ姿を表現しているのだろう。

「有害な笑い」の勝利

アネットが出てくる後半からは、本作は悲劇へ向けてまっしぐらに進んでいく。ヘンリーの加虐性が露わになり、自尊心は比例するように大きくなりアネットをも飲み込んでいく。

悲しいのは、ヘンリーの舞台が”暴力的な笑い”を一層過激にしたことにより、客席には分断が生まれ、ヘンリーは客から激しいバッシングを受けてしまう。ヘンリーのみならず、観客を含めたこの一連の構図も露悪的であることを本作はキッチリと描いている。

そして「歌う赤ちゃん」ことベイビーアネットは世界中でもてはやされ、ネット上で拡散していく。作中では何度も「赤児を見世物にするのか?」という疑問が投げかけられるが、それを促進する者こそあれ、止めようとする人は現れない。エンターテインメントの有害な側面もまた、ありありと描いた作品なのだ。

最後に、ヘンリーとアネットに待ち受ける運命と選択とは何なのか。それは映画を観て、ぜひ噛みしめてほしい。業に魅入られた者の定めと、巻き込まれた人の悲劇がそこには描かれている。

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