映画「アメリカン・アニマルズ」考察・フィクションとドキュメンタリーを交互に演出したのはなぜか(超ネタバレ)

※完全ネタバレです。ご注意ください。

本作の特徴は、フィクションとドキュメンタリーどちらの要素も均等に力を持っていることだ。

夢と現が互いに力を持ちシーソーゲームを繰り返すことで、”何者か”と”現実”の間にある「若者のジャンプ意識」を描いている。

本ブログでは、なぜ、交互に描く必要があったのか、また、「若者のジャンプ意識」がなんなのかを語る。

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基本情報

監督・脚本
バート・レイトン
出演者
ウォーレン・リプカ-エヴァン・ピーターズ
スペンサー・ラインハード-バリー・コーガン
チャールズ・T・アレン2世(チャズ)-ブレイク・ジェンナー
エリック・ボーサク-ジャレッド・アブラハムソンエヴァン・ピーターズ
撮影
オーレ・ブラット・バークランド
公開
2018年6月1日(米)
2018年9月7日(英)
2019年5月17日(日)

「あらすじ」
大学生のウォーレンとスペンサーは、自分が周りの人間と同じ退屈な大人になりかけていることを感じていた。そんなある日、2人は大学図書館にある時価1200万ドル(およそ12億円相当)を超える画集の存在を知る。2人は、友人エリックとチャズに声をかけ、その画集を盗んで金にすることで最高の人生を送る計画を立てる。犯罪映画を参考に4人は、老人に扮し図書館に乗り込む計画を立てる。来たる決行日、そこで彼らを待ち受ける運命とは?このアメリカで実際に起きた前代未聞の強盗の結末は?

フィクションにもドキュメンタリーにも着地しなかったのはその間を描きたかったから

本作の面白さは、フィクションと事実、両面から均等にメッセージを受け取れることだ。要所に犯罪映画的なスピーディーでクールかつ動的な演出を交えながら、合間に実際の事件を起こした当人達のインタビューを挟むというユニークな構成をしている。

【本作に出てくるクールなフィクション感】
盗み出す本オーデュボンの画集「アメリカの鳥類」に当たるスポットライト、仲間集め、秘密基地での作戦会議、クールで鮮やかな盗みの手口、暗号を用いた裏バイヤーとのやりとり。センスに満ちた素ぶり。

【現実】
実際の事件時のインタビュー、計画のずさんさ、人を傷つけられない善良さ、犯罪に対する弱腰、アドリブの効かなさ、浅はかさ、平凡な言葉選び、後悔のざんげ。

一体なぜこれらの情報は、交互に繰り返されたのか。

レイトン監督はインタビューの中で本作は「何者でもない自分になってしまう焦燥感と、何者かに憧れる思いに苦しむ若者を解放する話」だと語っている。それがこの事件、この映画の根底だ。

「頭の中にいる何者かになった自分」をフィクションパートで可視化し「何者でもない自分」をドキュメンタリーパートで浮き彫りにし、その合間に悩む青年達を描いている。

この私たちの頭の中で起きる都合の良い出来事とそのギャップを可視化する緩急が面白い。

私達の頭は何かをしようとするとき、おそらくうぬぼれるように出来ている。
例えば「音楽を始めて曲を作ってデビューしよう」とする。この時作る前には必ず名曲が出来ると思っている。そして、著名な人の目に止まりあれよあれよと売れっ子になってしまう。そんなイメージを抱く。だが、実際には曲を作るどころか、ギターのフレッドを押さえることすら満足にできないことに気づく。やっと曲を作ってウェブに上げてみたが再生するのはほとんど自分だけで50回再生されたら良い方という現実に直面する。

この「都合の良い想像」「現実のハードル」を交互に見せることで、一層の焦りと苦しみをより明確に見せることに成功している。また、”何者か”というものには一朝一夕にジャンプしてなれないことも示唆している。

虚実を交互に見せることで浮かび上がる熱狂と諦観の文脈

実行犯の青年達は痺れるような達成幻覚と高揚感を感じながらも、心のどこかで諦めを覚えていた。それでも実際の犯罪行動に至ってしまったところに本作の面白さがある。

本作のインタビューの中で

「なぜ上手くいかなかったと思うか?」とたずねたとき「始めから上手くいくと思っていなかった。誰かがどこかのタイミングで止めてくれると思っていた」

という証言がある。
この感覚はキーマインドにもなっている。本作は半分諦めながらも、別の頭ではこの犯罪計画を楽しみ、そして都合の良い脳は、上手くいき何者かになれるかもしれないビジョンを見せることで彼らの当時の心境をより鮮明に描いてみせた。

ドキュメンタリーで語れば、この青年達は失敗談を語る変身願望を持った平凡な男達にすぎない。
フィクションでは、とても都合よく平凡から華麗な変身を果たした瞬間を描く。そしてこのドキュメンタリーとフィクションへのジャンプの可能性と失敗の不安を、役者が生感のある演出を用いて埋めている。

事実を構成するフィクションの存在

フィクションとドキュメンタリーを作中で明確に振り分けした中に、一つだけ曖昧なドキュメンタリーが混じっている。
ウォーレンの「アムステルダムのバイヤー」のくだりだ。本当にウォーレンはアムステルダムまで行って、闇取引のバイヤーと商談をしてきたのか?それはウォーレンの言葉の中にしか出てこず、真相は闇の中になっている。

私はこのエピソードに、ウェブの中のサクセスストーリーを思い起こした。
現代の若者達における”何者か”がいる場所はネットの中だ。そこには、フィクションなのか事実なのか判別のつかないようなサクセスストーリーが日夜渦巻いている。あるいはサクセスは事実なのかもしれない。けれど、その経緯となるストーリーは本当なのだろうか。ここにも”何者か”と”現実”とのジャンプがある。結局のところ、自分が”何者か”であると信じ込むための幻想が誰しも必要。ということを本作は描きたかったのかもしれない。そして、それは翻すと、知らない誰かが”何者か”なのだと思い込んでしまう檻のようでもある。

一つの事実の中にもまた幻想が含まれていると描くのは、ドキュメンタリー畑のレイトン監督ならではだろう。

まとめ

本作はフィクションでもドキュメンタリーでもない。その間にいる若者達の存在を描いている。冴えない現実から”何者か”へのジャンプを果たしたいと願う若者達の姿と、その間にある茫漠の空間を何で埋めるのかという作品だったのではないかと思う。
その間を跳ぶような都合の良い事は起こったりしない。そこにドキュメンタリーとしての「現実」とフィクションという「幻想」を交互にしてハシゴをかけるようにした作品なのだ。いずれも必要だと言っているようにも見えるし、そもそも”何者か”もまた幻想かもしれないと突きつけていたのかもしれない。

「関連作品」
○青年達が実際の犯罪の参考にした作品達。本作の中でもふんだんにオマージュが含まれている。

○一番本作に近いタッチの作品。

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